アリウス派の洗礼堂、アリアーニ洗礼堂
5~6世紀の素晴らしいモザイクが残る、イタリアの少しマニアックな観光地、ラヴェンナ。
初めてラヴェンナに行ったとき、きらびやかなモザイク装飾に興奮しながら、ガイドブックや観光パンフレットなどの解説を見ながらあちこち見学しました。
その中に、「アリアーニ洗礼堂」という建物があります。
この建物、ガイドブックやパンフレットには、
6世紀前半、東ゴート族のテオドリクス王がラヴェンナを支配していた時代に、彼らが信仰していた異端のキリスト教・アリウス派の洗礼堂として建てられたもの。
という解説がありました。
趣味の範囲でキリスト教史が好きなので、異端のアリウス派については初めて聞くものではなく、まあまあ知ってました。
325年のニカイア公会議、それから451年のニカイア公会議で、異端であると断罪されたキリスト教の宗派です。
ですが、なぜ異端の宗派の洗礼堂が残っているのか、モザイクのどの辺が異端思想なのか、正当派キリスト教のネオニアーノ洗礼堂とどこが異なるのか、そういうことは一切解説がないのです。
そっくり!ネオニアーノ洗礼堂とアリアーニ洗礼堂のモザイク
ラヴェンナにはもうひとつ、正統派キリスト教の洗礼堂であるネオニアーノ洗礼堂という建物が残っています。こちらの方が古く、5世紀頃の建築です。じつはこの2つの洗礼堂、天井のモザイクがすごく似ています。
見た感じ洗礼者ヨハネとヨルダン川の老人の位置が入れ替わったぐらいしか違いがないし、アリウス派の主張が何か絵柄に表れているのかっていうと、わかりません。
・・・で、ラヴェンナから戻った後に、いくつかのキリスト教やビザンティン芸術の本を読んでいてわかったこと。
両者の絵がそっくりなのも、異端のアリウス派の洗礼堂が今なお残っていることも、至極当然のことでした。
アリウス派の洗礼堂のモザイクは、正統派のモザイクを参考に作られたものでした。そして、正統派から見ても、教義的に問題のない絵柄だったから、モザイクの改変や破壊が行われずに済んだのです。
2つのモザイクのどこに、異端と正統派の違いがあるのか、差異ばかり気になっていた自分には、それこそ目から鱗!でした。
アリウス派から正統派の領土へ
アリアーニ洗礼堂は、ゲルマン地方からイタリアに侵攻してきた東ゴート族、アリウス派を信仰するテオドリクス王によって建てられたものです。
その後、東ゴート王国は東ローマ帝国に滅ぼされ、ラヴェンナも東ローマ帝国の領土となりました。東ローマ帝国は正統派キリスト教を国教とする国です。
前述のとおり、アリアーニ洗礼堂は、そのまま残していても、正統派キリスト教的に問題なしだった。ということは、問題ありと判断されて、改変されたモザイクもあるということ。
それが今サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂と呼ばれる教会です。
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂=テオドリクス王の宮廷付属聖堂
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂は、もともとテオドリクス王の宮廷付属聖堂として建てられました。(この聖堂の隣にテオドリクス王の宮殿があったのですが、今は残っていません。)
東ローマ帝国支配になった時、宮廷付属聖堂は聖マルティヌスに捧げる聖堂に変えられました。(聖マルティヌスは異教徒と勇敢に闘ったことでも知られている聖人です)
さらに9世紀頃になってから、今の名称、新しい聖アポリナリスの聖堂=サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂という名前になったのだそう。
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂のモザイク改変
東ローマ帝国がラヴェンナを支配したときの皇帝は、有名なユスティニアヌス帝。
熱心な正統派キリスト教徒であったユスティニアヌス帝は、宮廷付属聖堂に残る、アリウス派やテオドリクス王の痕跡が許せなかったようです。今もサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂のモザイクを注意深く見ると、どのような改変が行われたかが、わかるんだそうです。
改変の痕跡1・キリストの一番近くにいる聖人像
この聖堂のモザイク装飾で一番目を引くのは、バシリカに描かれた聖人の大行列です。
男性聖人の行列を率いる先頭の人物は、黒いガウンをまとっていて、斜め上に「聖マルティヌス」と銘があります。
聖マルティヌス聖堂となったのは、東ローマ帝国支配となった後なので、テオドリクス王時代にはなかったモチーフであることは間違いありません。
ここのモザイクは、聖マルティヌスに捧げる聖堂に変えたときに改変されたものだそうです。
もともとのモザイクでは、ここの人物は誰だったのか。確かなことはわからないようですが、テオドリクス王本人が描かれていたのでは、と考える説があります。
自分の宮廷の聖堂ですから、キリストに一番近いところに王自身が描かれているというのは、すごく自然で納得できます。
改変の痕跡2・クラッセの街を囲む塀
聖堂に入って左側は、女性聖人の行列です。
この行列のスタート地点のモザイクに、ラヴェンナの近くのクラッセの港と街が描かれています。
クラッセの街を囲む塀はのっぺりとして、不自然に何もない壁が描かれてます。
ここには、テオドリクス王の廷臣や家族など、あるいはアリウス派の聖人や司教たちの人物像が描かれていたのだろう、とのこと。
いずれもユスティニアヌス帝にとっては不都合な人物だったということで、塗り潰されたようです。
クラッセの港から続く金色の壁部分は、もともとはガラスのテッセラ(モザイクを作るときに使われる小片)で作られていたところを、大理石のテッセラで改変したのだそうです。微妙に色が変わって見えるのがその違い?肉眼では大理石とガラスの違いがわからなかったのですが・・・。
改変の痕跡3・宮殿(パラティウム)のカーテン
クラッセの街のモザイクと向かいあった壁面、男性聖人の行列のスタート地点には、PALATIVM(パラティウム)と記された建物が描かれています。これはもともとテオドリクス王の宮廷として描かれたものだそうです。
この宮廷の中央ものっぺりした金色の空間があるのみで、連なるアーチには全てカーテンがかかっています。
ここも、本来はカーテンなどではなく、テオドリクス王に近い者、アリウス派の司教たちの人物像が描かれていたものと推察される・・・とのこと。
金色の空間にはテオドリクス王自信の騎馬像があったのだそうです。
クラッセの街で塗り潰された人物たちと同様、ユスティニアヌス帝にとっては、いずれも絶対に残してはおけない人物だったってことです。このため、塗りつぶされ、あるいはカーテンで隠されてしまったのですね。
ここで面白いのが、カーテンで隠されてしまった部分をよく見ると、柱のところに隠し切れなかった手や指がちょっとずつ残っているところです。
これらの手から想像するに、描かれた人物は、テッサロニキのロトンダのモザイクみたいなポーズだったのかな、と思ったりしました。
隠しきれなかった手をアップ。
それにしても、ここまで隠すのなら、なぜ手や指を中途半端に残したのか、不思議です。手抜き作業?もしかしたら見せしめのためだったのかもしれません。
ラヴェンナの歴史
ラヴェンナは何度も支配者が変わって、歴史はそれなりに複雑ですが、栄えていたのは6世紀頃まで。その後はすっかり歴史から忘れられた街になりました。
そのおかげで、中世のイコノクラスム(聖像破壊運動)にも巻き込まれずに素晴らしいモザイク芸術が残ったのだから、ありがたいことです。
何も知識なしで見ても素晴らしいモザイク芸術ですが、歴史に沿って見てみると、さらに面白いです!
さすがにもう行くことはないと思うけど、もし次行けるなら、建築物のできた順に回って見るということもしてみたいです。