2017年3月。イタリア中部の街、アッシジ。清貧で有名な聖フランチェスコの聖地に、ジョットのフレスコ画を見に行くことにしました。
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聖フランチェスコの街、アッシジ
ずっと行ってみたいと思っていたイタリアの街の一つ、聖フランチェスコの生まれた街、アッシジ。
ちなみに今バチカンにいる現役ローマ法王はアルゼンチンの人で、名前をフランシスコ1世と名乗っています。歴代法王でフランシスコを名乗るのは今の法王が初めてだそう。由来はもちろん、アッシジの聖フランチェスコです。
アッシジで有名なのは、聖フランチェスコが亡くなった後に建てられたサンフランチェスコ聖堂。ここは、ジョットやチマブーエ、シモーネ・マルティニなど当時の有名画家たちによるフレスコ画で装飾された美しい教会です。
その中でも特に、聖フランチェスコの生涯を描いたジョットのフレスコ画を見たくて、アッシジに行くことにしました!
聖フランチェスコは清貧の聖人
聖フランチェスコは1182年にアッシジの裕福な商人の家に生まれました。ある日、深い宗教体験を受けて、自分の財産を、それこそ衣服に至るまで全て貧民に分け与えてしまい、自分は粗末な服一枚のみをまとって、清貧と祈りの生活に引きこもりました。
その後、聖書の記述を読んで、自分の実施している清貧の生活が、説教や貧しい者を助ける活動と結びつくことになるとひらめきます。そして、人々から施しを受けながら、荒れ果てた教会を修復したり、街頭で聖書の教えを説いたり、貧しい人々を助けたりする活動を始めた人です。
のちにこの活動はフォロワーをたくさん集め、中世のドミニコ会と並ぶカトリックの大修道会、フランシスコ会となりました。
教会を支えるフランチェスコの夢を見たローマ教皇
自分が好きなエピソードは、フランチェスコがこうした活動の許可を得るため、当時のローマ教皇に謁見しに行ったときの話です。
フランチェスコが謁見したローマ教皇インノケンティウス3世は、当初はフランチェスコの活動を許可するつもりはなかったようです。そもそも、修道士が施しを受けることや、司教職ではない人間が説教を行うことは禁止されていたそうなので。
(実際、フランチェスコの少し前にほとんど同じような思想で同じような活動を行ったワルド派というグループは、異端として教皇庁から弾圧されました。フランシスコ会と比べると不公平でかわいそうな感じもします。)
インノケンティウス3世は、傾いたラテラノ大聖堂をみすぼらしい修道士が一人で支える夢を見ました。その修道士が聖フランチェスコであったことに気が付き、これをきっかけに、フランチェスコの熱意を認め、活動を許可することにしたのだそうです。
ちなみに「傾いたラテラノ大聖堂」とは、対イスラムの十字軍だとか、皇帝との対立だとか、富と権力の拡大に伴って腐敗した司教職や修道院だとか、問題山積みのローマ教皇庁そのものを指すものです。
この夢を見た、というエピソードがちゃんとジョットのフレスコ画に描かれています。たぶん一般の人にもすごくわかりやすいエピソードだったんでしょうね。
自分がこの絵を初めて見たのは何かの本の表紙か挿絵だったと思いますが、それ以来この絵とエピソードが忘れられず、本物を見てみたかったんです。
・・・なんでかっていうと、タイトルに反して、フランチェスコは全然建物を支えられてないんですよね!!自分も傾いている教会の土台の上に乗っているという。これじゃ共倒れじゃないか。
教皇インノケンティウス3世の寝方も体を正面に向けて斜めになっていて変です。
建物の傾き具合もそのまま角度をつけただけだし、まだまだ絵の描き方が稚拙?なのです。
ジョットは中世の絵画技法からルネッサンスの時代を切り開いた画家、という評価がなされています。こういう絵から、当時の空間把握や立体的なものを描くことの難しさや、苦労したんだなってことがうかがえて面白い。
アッシジの見どころ
サンフランチェスコ聖堂
アッシジではここを見よ。ジョット、チマブーエ、シモーネ・マルティーニなどの画家によるフレスコ画。
サンタ・キアーラ教会
聖フランチェスコの活動を支えた女子修道士、聖女キアーラを祀る教会。
サン・ルフィーノ大聖堂
この街の大聖堂。聖フランチェスコ、聖女キアーラともにここで洗礼を受けたそうです。
ロッカ・マッジョーレ
ローマ時代の城塞。アッシジの丘の一番上にあります。
サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会
聖フランチェスコが亡くなった礼拝堂ポルツィウンコラが保存されている教会。
(続く)
≪アッシジ旅行計画≫